「水俣・ガンガゼ漁」

第9回ロケ 2009年11月

 水俣の海でガンガゼを獲っているという情報を教えてくれたのは、尾崎たまきさん。
 たまきさんは15年以上、水俣の海に潜っていて、その間に親しくなったのが、今回ガンガゼ漁を取材させてもらった杉本肇さんのご家族だった。
 たまきさんは熊本市の出身。小さい頃、父親に連れられて海によく遊びに行ったそうだ。
「父は潜って魚を突いたり、貝を採ったりしました。わたしは浜で父と仲間たちが海から上がってくるのを待っていたんですが、どうしても潜って海の中を見たかったんです」
 たまきさんの海との関係の原点がここにある。

 19歳のときにダイビングを始め、短大を卒業し保育士になった後も、週末には海に潜り続けた。どうしても海と関わり続けていたかった。それには写真をやらなくちゃと、写真スタジオに入り、広告や料理の写真を仕事にした。そして、21歳で趣味として水中写真を撮り始めたのだ。

 水俣の海に初めて潜ったのは95年。25歳のとき。まだ水俣湾の仕切り網を撤去する前。地元の新聞に、仕切り網の撤去の是非や論議が載らない日はなかった。
「海を仕切るってどういうことなのか見てみたい」というのが潜る動機だった。
 その海にまだ水銀が残っているかもしれないという恐怖感もなく、埋め立て地の岸辺から海にエントリーして、仕切り網を目指した。
 ところが透明度が低く、何も見えない。仕方がないので水面移動して、仕切り網近くまで行き、やっと海に潜った。

「入ってみたら、網に沿ってスズメダイがいっぱい群れている。そして私の周りをグルグル回遊するんです。それまで水俣の海に持っていたイメージとあまりに違っていました……ほんとに申し訳なく思ったんです」
 申し訳ない?
「ええ。じつは、潜る前は『魚なんてほんとにいるの?』『奇形の魚がいるんじゃないかな』というネガティブな気持ちがあったのも事実なんです。
 でもスズメダイの群れを見たとき、何か私を奮い立たせるものがあったんです。
 海からあがって、上で待っていた友だちに『わたし絶対、この海をずーっと撮り続けるから』って言い切りましたもん(笑)」

 それから毎週末、熊本から往復5時間かけて車で水俣に通った。1時間から2時間潜っての日帰りだ。
「仕切り網が撤去されるまでは頻繁に通いました。ある意味、仕切り網があるときは写真が撮りやすかった。仕切り網というのは水俣の象徴でしたから。
 巨大な網(最長時4.4㎞)沿いにはいろんなドラマがありました。汚染された魚が広がるのを防ぐために人間が設置した網なんですけど、魚たちはそこに卵を産みつけている。大きな魚に追われた小魚が網の目をするっと抜けて内側に逃げ込んできたり。仕切り網が、魚たちが生きるために役立っているんだなという気がしたんです」
 ところが、撤去後は魚の数も、たくましい生命に出会う機会も減ってしまった。そして、たまきさんは、何を撮るべきかがわからなくなってしまった──。
 この精神的な喪失状態は数年続いたという。

 それでも水俣に通い続けたある日、漁師の入れた刺し網にアオリイカが掛かっているのを見た。
「そうか、この海で育った生きものを生活の糧にしている人がいるんだって思ったんです。そのとき初めて海の上のことを考えました」
 たまきさんの視点が変わった瞬間だった。
 やがて水俣漁協に飛び込みで行き、徐々に漁師と話す機会も増え、杉本肇さんのご家族と知り合うことになる。
 杉本さんの母・栄子さん(08年に故人となられた)は、茂道(もどう)地区の網元の娘として生まれ、自らも水俣病を患い、一時は漁業ができなくなったが、チリメンジャコ漁を復活。水俣病の語り部として、水俣の歴史を語り続けてきた方だった。
 その栄子さんとの出会いがたまきさんを、大きく変えていった。
「栄子さんの船に乗せていただくと、水俣への、そして水俣の海への思いが私たちの想像をはるかに超えて、強いのがよくわかりました。栄子さんはこんな話をしてくれました」


(栄子さんの話)
 海は怖いです。厳しいです。欲を出せば一匹もくれません。ほんとうに魚(いお)どんたちの頭が良くって、私を受けとめてくれていますもんで、やっぱり無になって、「今日は漁に出ますばってん、弱か身体ですので、よろしくお願いします」ちゅう合掌のもとに船に乗らんばならんとですよ。

 水俣病のことも人に話せる良っか時期になりました。水俣はずっと続いとる良か山がありまして、ずっと続いとる長か川がありまして、そして、私たちの住んどる海まで続いとっとです。山に雨が降りますれば、山のミネラルをいっぱい含んだ水が、まんべんなく浜(はま)ん小浦(こら)を伝わりまして、ビナ(巻き貝)どんたち、貝どんたちに行き渡っとです。そして藻が育てば、いやでん(いやでも)魚たちの寄って来っとです。
 でも、木が病み、海が病み、人が病んだときは、人に聞いてくれろって言うても誰も聞いてくれまっせんでした。それを耐えて、今日死ぬ、明日死ぬちゅう生活からここまで来るまでの間には、ほんとうにいろいろな人たちが死んでいきました。それでも身体の弱か私が生き残ったのは、生きとったじゃなかっだな、生かされとっただなっていう思いがあります。ほんとうに、そのような海との関係があって良かったなって思います。

「いじめた人んこつば恨まんようにするには、どげんすればよかろうか」ち主人に聞いたら、「あんときは台風じゃったち思えばよかやんかいや(よいじゃないか)」ちゅうことを言ってくれまして。確かにあんときは台風だっただろうな、そげん考えれば人も恨まんちよかなって。そして主人から「あんたが、いつでん(いつでも)水俣病のおかげでって言うならば、あんたが財産は水俣病じゃなかか」ち言われました。父も言い遺してくれたように「水俣病も『のさり』じゃねって思おい」と。自分たちが求めんでも大漁したことを「のさり」と言うんです。水俣病も、自分たちが求めんでも自分に来た「のさり」と思おいと。だから、本当につらかった水俣病でしたけれども、水俣病のおかげで私は、人としての生活が取り戻せたように思います。


 たまきさんは言う。
「水俣で捕れた魚を食べたことが原因で水俣病になったにもかかわらず、栄子さんには、海や魚に対する恨みや憎しみが一切ありませんでした。栄子さんとお話するようになって、私は水俣をもっと見つめ直さなくちゃと思い始めました。それから写真を撮る姿勢がちょっと変わったような気がします」
 どういう風にそれは変わりました?
「水俣にいる魚は決して珍しい魚ではないんです。日本のどこにでもいる魚たち──でも、水俣の魚を見ていると、その魚たちの生きてきた背景を想像するようになりました。
 一匹のヒラメを見るだけでも、
『今まで生きるか死ぬかという過酷な環境の中で生命(いのち)をつないできたんだ。一体どうやってここまで生き延びてきたんだろう』って考えるようになったんです。生命の連環やその不思議さを思うようになりました。
 どこにでもいるヒラメだけれど、私の中では、水俣で出会ったヒラメだからこそ意味がある。だから、水俣の生きものたちに、すごく背中を押されている感じがする。何か励まされるんです。
 栄子さんとの出会いが、私にとって、海の中と陸とを繋いでくれました。
『生きてる魚の生命をいただいて、あなたは生かされているんだよ』と栄子さんに教えてもらいました。

 栄子さんはある講演会で、このように話を締めくくったことがある。
「どうぞ、健康なときは忙しゅうございますで、具合の悪うなってから水俣に来てくだまっせ。そして塩水につかって元になってまた帰る、そげん水俣を考えてくださいませ」

吉村喜彦


(栄子さんの話は、栗原彬編『証言 水俣病』(岩波新書)から引用させていただきました)

(水俣湾の仕切り網)
水俣湾で水銀に汚染された魚が不知火海全体に広がるのを防ぐため、熊本県が74年、湾口に設置した。最長時には全長約4400メートル。段階的に撤去され、97年に県知事の「安全宣言」を受け、残っていた約2100メートルをすべて撤去。湾内での漁が再開された。



以下、写真とコメントは吉村喜彦。

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水俣で取材中の尾崎たまきさん。杉本肇さんの漁を舟の上から撮影している。

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海中でガンガゼを撮影中。舟との連絡のために浮上。鋭い眼が世界をとらえる。

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ガンガゼの棘をとる作業を撮影中。海でも陸(おか)でも休む暇がない。

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「やうちブラザーズ」のライブ風景。真ん中が杉本肇さん。
左が弟の実さん。喜納昌吉の前座をやったこともある。
「やうち」とは身内の意味。「身内でやっていた宴会芸の延長なんですよ」と肇さんは言う。


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杉本実さん。肇さんとはちょっと違った飄飄とした風情。芸風も違う。
「やうちブラザーズ」はその絶妙のブレンドが魅力。


「やうちブラザース」とは、杉本肇さんが中心となって弟の杉本実さん、親戚の鴨川等さんの3人で10年ほど前に結成されたコミック・バンド。いまやライブやイベントで引っ張りだこ。
こちら(
http://yauchi-brothers.cocolog-nifty.com/)で、その幻の映像がご覧になれます。


以下、写真とコメントは尾崎たまき。


ヒラメ_web
杉本肇さんの集落、茂道の海に潜って出会ったヒラメ。

海藻の森sjpg_web
春になると海藻が繁茂し、生きものたちの集う大切な場所となる。

仕切り網に産_web
汚染魚の拡散を防ぐための仕切り網だったが、アオリイカの命の誕生が見られることもあった。

仕切り網をす_web
仕切り網の外から中にすり抜けてくるスズメダイは、外敵から身を守るものとして、網を巧みに利用していた。

スズメダイの群れ_web
初めて潜った水俣湾。まさに命あふれる海に感動がとまらなかった。

杉本栄子さんs_web
肇さんのお母さん、栄子さんとの出会いで、水俣の海がますます愛おしく思えてきた。