#13 歌に詠まれた、寒立馬 -青森県東通村(ひがしどおりむら)-

#10

文・写真:高草操

2014.06.12

東京のど真ん中で暮らす御神馬

東京・外神田に鎮座する神田明神(正式名称・神田神社)は、1300年の歴史をもつ東京で最も古い神社のひとつで、神田、日本橋、秋葉原、大手町、丸の内など108の町の総氏神として崇められています。この由緒ある神社に、とてもかわいらしい御神馬・神幸号(ごしんめ・みゆきごう)、通称・あかり(明)という小さな牝のポニーがいます。御神馬とは、神社に奉納された馬、祭事の折に使用される馬のことで、神様の乗り物といわれます。いずこの地でも神社と馬は深い結びつきをもっていますが、馬の世話や経費などの理由で実際に御神馬がいる神社は非常に少なく、仮に御神馬がいても管理は馬専門の機関に委ねるケースも多いのです。けれども神田明神では、神官や巫女の方々自らが馬の世話をし、祭事もこなせるように調教しているというので、訪ねてみました。

調教を担うのは元馬術選手の宮司

あかりは2010年長野県佐久市生まれの4歳牝馬。神田明神大祭日にあたる5月15日に生まれたことから、2011年秋に御神馬として神田明神にやってきました。毎朝9時には境内に設けられたパドックで大勢の参拝者を迎え、夕方4時ごろには神社の敷地内を散歩して厩舎に戻ります。夕方の散歩と厩舎の掃除は当番制で神官や巫女さんが行いますが、あかりの調教を担当するのは千島俊司(ちしま・しゅんじ)さんです。

千島さんは北海道出身。子どもの頃から馬に親しみ、1992年にJRA日本中央競馬会に入会し、馬術選手として活躍する一方で、後進の騎手や馬術選手などの指導にもあたってきました。その後、馬術大会で知り合った奥様・淳子(じゅんこ)さんが神田明神の宮司さんのお嬢さんだったことから、15年勤めた競馬会を退職し、資格をとって神田明神の神官となりました。「都心でも馬が活躍できる場があることを多くの人に知ってほしい」と話す千島さんは、御神馬のあかり、そして祭事の折には力強い助人として働くパートナーのチョコと共に、競馬会時代の経験を活かし、馬に関る神社の祭事で活躍されています。

江戸から東京へ、人々の総鎖守として崇められてきた

神田明神は、730年(天平2年)、真神田氏(まかんだおみ)の一族により武蔵国豊島郡芝崎村(現在の千代田区大手町)に創建されました。御祭神は、日本人の生活の基礎を築いたという大己貴命(おおなむちのみこと=大国様/真神田氏の祖先)と少彦名命(すくなひこなのみこと=えびす様)、そして悪政に苦しむ東国の庶民を守ったという英雄・平将門命(たいらのまさかどのみこと)の三柱(みはしら)です。

創建当時、中央では貴族政治が行われていましたが、地方政治は中央から派遣される国司が担っていました。やがて上総(かずさ)の国司として関東にくだり土着となった桓武平氏(かんむへいじ)一族から平将門が登場します。将門は悪政に苦しみ、国司に対抗していた地元の豪族と手を結び、939年国府(こくふ)に対する反乱を起こします(将門の乱)。そして自ら「新皇(しんのう)」と名乗って関東の国府を手中にしますが、中央政府に鎮圧され将門は京都で断罪されました。すると将門の首は関東に飛んで戻り、その首を葬った将門塚周辺で天変地異が頻繁に起きるようになったのです。人々が将門の御神威(ごしんい)として恐れたため、1309年(延慶2年)、遊行僧・真教上人によって将門の霊は神田明神に祀られることとなりました。

将門が挙兵した時代、中央政府に対抗する地方豪族は武力をつけるために土地を開墾し牧場をつくって馬を育てることに力を注ぎました。馬の育成は武力化の最も重要な要素であり、将門も自ら騎馬隊を結成し、戦では先頭に立って戦ったといいます。やがて武力化した豪族は武士団となり、鎌倉幕府建国に大いなる働きをします。この歴史の中で馬が果たした役割の大きさは計り知れません。

時は流れ1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いに出陣した徳川家康は神田明神で戦勝を祈願し、まさしく9月15日、神田祭のその日に勝利をおさめました。その後天下統一を果たした家康は江戸の表鬼門守護の場所にあたる現在の地に神社を遷座し、社殿の増改築は幕府が行うようになりました。武士だけでなく庶民にも親しまれた神田明神は、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として崇敬されてきたのです。明治へと時代が移り1923年(大正2年)の関東大震災や第2次世界大戦の戦災をも耐え抜いてきた神田明神は、現在も東京名所のひとつとして企業をはじめとする多くの参拝者が商売繁盛や家康公の戦勝にちなんで祈願に訪れます。

馬が活躍する天下の祭礼、神田祭

その神田明神の大祭・神田祭は創建当時から催され、江戸時代には「天下祭(てんかまつり)」といわれる幕府公式の盛大な祭礼として二年に一度、9月に行われていました。明治になってからは皇室と東京守護の祭礼にかわり、1892年(明治25年)より台風や疫病流行の時期を避けるため5月に開催されるようになり、今日に至っています。

祭りは5月9日から15日の大祭の日まで数々の行事が行われます。中でも神幸祭(しんこうさい)は氏神様や神輿の行列が氏子の町々を巡る壮大な神事で、神田明神の神職の方々が馬に乗り、神輿や山車とともに1000名の行列が一日かけて神田、日本橋、秋葉原、大手町、丸の内の108町会約30kmを往くのです。その様子は、江戸末期に描かれた絵にも表され、当時の様子を今に伝えています。

江戸時代から最も人気があったのは、附け祭とよばれる行列でした。氏子によって毎回テーマをかえて当時流行した文化芸能などを取り入れた曳き物や仮装行列で、現在も様々な附け祭が話題を呼んでいます。1992年(平成2年)には、福島南相馬市から野馬追騎馬武者行列が参加しました。これは、神田明神の祭神である将門が、領内に馬を放って軍事訓練をしていたことを将門の子孫である相馬氏が伝え、現在の相馬野馬追い祭(毎年7月下旬開催)に継承されていることにちなんでいます。

隔年で「本祭」「蔭祭(かげまつり)」が催行される神田祭。今年、2014年は蔭祭にあたり、5月11日の神幸祭では、あかりが花車を引いて神輿や提灯の先頭を歩き、チョコは子どもを乗せて馬車をひきました。小さな二頭の馬が行列を先導する姿は、祭りに参加した人たちや見物客を大いに楽しませてくれました。

東京にも馬の働く場所がある

神田明神は家康公にちなんで戦勝祈願の神社としても知られています。千島さんが神官になってからは常に勝ち負けのレースを繰り広げる競馬の騎手たちも参拝するようになったそうです。おりしも神幸祭の日、千島さんが小倉、競馬学校を通じて指導をした愛弟子・浜中俊(はまなかすぐる)騎手がGIレースに見事優勝しました。馬に縁深い祭りの日の勝利は、なんだか神がかりのようです。御神馬・あかりのご利益でしょうか。

来年2015年、神田明神の本祭は、神田神社が現在の地に遷座されてから400年目の奉祝の年にあたり、より華やかなお祭りとなることでしょう。もちろん、あかりにとっても大仕事です。けれども、まだ4歳と若い彼女は、千島さんとともに、これからも神田祭をはじめとして活動の幅を広げていくにちがいありません。

東京にも馬の働く場所がある、そう思うと嬉しく、これからがますます楽しみになりました。

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