#12 歌に詠まれた、寒立馬 -青森県東通村(ひがしどおりむら)-

#10

文・写真:高草操

2014.02.28

「東雲に 勇みいななく 寒立馬 筑紫ヶ原の 嵐ものかな」

吹雪の中、寒さをこらえて佇む馬として有名な寒立馬(かんだちめ)。彼らが暮らす尻屋崎(しりやざき)は、青森県北東に突き出た本州最北の半島にあります。東北新幹線の八戸で在来線に乗り継ぎ、野辺地(のへじ)まで行くと、そこで青森からくる大湊(おおみなと)線に乗換え、下北半島を陸奥湾に沿って北上します。晴れた日の冴え渡る空、雪の白、海の深い青のコントラストは、下北ならではの冬景色です。本州最北の駅「下北」からさらに車で約1時間、ようやく尻屋地区に到着です。

「東雲に 勇みいななく 寒立馬 筑紫ヶ原の 嵐ものかな」

これは、昭和45年当時、青森県東通村尻屋小中学校の校長先生だった岩佐勉氏が、地元で放し飼いにされている馬たちの風雪に耐える姿を詠んだ歌です。このときから尻屋の馬たちは「寒立馬(かんだちめ)」という愛称を得て、全国的に有名になりました。

かつて漁師とともに働いた田名部馬がルーツ

寒立馬はもともとは下北半島原産の田名部馬(たなぶうま)という農耕馬です。現在のむつ市の中心部である田名部では、藩政時代は南部藩による馬政のもと、盛んに馬産が行われていました。南部藩が管轄する九牧(くまき)のうち、大間(おおま)と奥戸(おこっべ)の2つの牧が現在の下北にあったこと、2つの牧は野続きであったことが古文書にも記されています。大間野は現在の大間町付近、そして奥戸牧は現在の尻屋・目名(めな)地区付近にあたります。

1957年の調査によると、尻屋では馬の繁殖に力を入れ、放牧期間も長かったそうです。漁業と畜産を兼業し、どの家でも牛や馬を飼い、特に馬は水揚げした昆布やイカの運搬に活躍していました。漁師さんたちにとって畜産は漁業ができない冬場の大切な収入源だったのです。馬は主に放牧で飼養されていたことから、尻屋の人たちは「野放し馬」と呼んでいました。

やがて、港が整備されるとともに機械化が進み、漁師さんたちが漁業だけで生計をたてられるようになると、田名部馬は農用馬・荷役馬としての仕事がなくなり、次第に肉用馬として生産されるようになったのです。

東通村の寒立馬保護活動

東通村では青森県の補助を得て、寒立馬が産んだ牝馬はすべて田名部畜産農協で買い上げて尻屋牧野組合に飼育管理を委託。そして、牝馬1頭を返納すれば組合員に親馬を無償譲渡する、という寒立馬導入事業を実施しました。この事業は成功し、平成元年には80頭にまで増えましたが、平成3年に牛肉の自由化が実施され、肉用輸入馬が増加すると、国内産の需要は低迷。馬を手放す人が続出し、寒立馬は再び9頭にまで減ってしまいました。

そこで、東通村と青森県は半々の負担で寒立馬保存対策基金を創設。あわせて7年計画で牝馬保留、放牧管理などの保護対策を開始しました。平成14年11月、寒立馬が放牧されている尻屋灯台付近の景観が青森県の天然記念物に指定されると、観光客の人気を集めるようになります。そして、7年計画終了後の今も行われている東通村独自の保護活動により、現在、尻屋で暮らす寒立馬は30頭前後までになりました。

「寒立馬」から「農用馬」へ

馬を管理している尻屋牧野組合の組合長に話を伺いました。彼は漁師さんです。かつては野放し状態で気性の荒い馬が多かったそうですが、あるとき肢を捻挫した馬を隔離して面倒みたところ、馬がとてもなついたことがきっかけで、組合員が面倒をみるようになったのだそうです。

冬に出会う寒立馬の多くはお腹の大きな牝馬と前年に生まれた子馬です。彼らはアタカと呼ばれる防風林に囲まれた越冬放牧地で過ごします。アタカの入口近くには馬たちの冬場の飼料が保管されている倉庫があり、夏期にアタカで採草された乾草ロールを毎日たっぷりと食べて、栄養状態も良好です。2月から3月は流産の危険をさけるため、栄養価の高い飼料を与えます。春になると、馬たちはアタカから灯台付近の放牧地に移動し、出産のために作られた囲いの中で保護され、組合員に見守られながら、お産を迎えるそうです。

むつ市と東通村の境に位置する村営牧場には寒立馬の種牡馬、つまりお父さん馬がいます。種牡馬は、冬場は厩舎でたっぷりと栄養をつけ、春、寒立馬の牝馬の群に放牧され、自然交配で新しい命を育みます。藩政時代には一般的だった繁殖形態ですが、現在では全国的にも珍しくなりました。生まれた子馬たちは、牡馬は当歳で、牝馬は2歳で繁殖に残す馬を除いてすべて、七戸で行われる農用馬のセリに出されます。馬たちが「寒立馬」ではなく「農用馬」として新たな道を歩み、その収入で尻屋牧野組合が成り立っているとのことでした。

「天然記念物」となり、下北半島の風物詩に

放牧地には、東京、大阪、名古屋から訪れるツアー客や、カメラを手にした写真愛好家の人たちがやってきます。馬たちは頻繁にやってくる人たちに驚く様子もありません。けれども、冬場はお腹に子供がいることもあって馬たちはとても大人しいですが、出産シーズンには生まれたばかりの子馬を守るために母馬は気がたっています。そんな母馬に近づいて思わぬ怪我をした観光客からは、その苦情がすべて牧組合に来るのだと組合長さんは苦笑いをしていました。

本来、尻屋の馬たちは決して人を襲うような馬ではありません。馬が暮らす放牧地を訪れるとき、私たち人間はまず静かに彼らを見守り、人に対する警戒心をといてくれるのを待つ。組合長さんのお話しは、改めてそのことの大切さを教えてくださったように思います。

かつて漁師さんたちの労働や経済を支えた馬たちが、一度はその役割を失ったものの、尻屋の放牧風景の一部として天然記念物の指定を受け、「風雪に耐える姿」は下北半島の風物詩になりました。冬の雪原に立つ寒立馬の姿は、多くの人を魅了してやみません。一方、セリで馬を売ることによって得る収入もまた、馬の頭数や美しい景観を維持するために必要なのです。

尻屋で暮らしているからこそ「寒立馬」とよばれる馬たちは、観光と経済に貢献するという形で今も人とともに生きているのだと感じました。

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