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文・写真:高草操

2013.12.20

神社とともに里山に受け継がれて……

流鏑馬。それは、馬を走らせながら馬場に並べられた3つの的を矢で射る武芸です。

その歴史は古く、平安時代の宮中では、流鏑馬の原型ともいえる行事がとり行われていたそうです。やがて世の中は貴族の時代から武士の時代へ。幾多の戦いの中で武士たちは、戦勝祈願や戦勝御礼の際に八幡宮へ流鏑馬を奉納し、鎌倉幕府が成立してからは、鍛錬の場として、あるいは楽しみとして馬術や射芸である流鏑馬を競い合いました。こうして流鏑馬は源氏系武士の間に定着し、その後、小笠原流、武田流、そして三浦流などの諸流派に系統づけられて、現在に至っています。

一方で、神社に奉納された流鏑馬は、里に根付き、土地の人々によって受け継がれてきました。鎌倉と武蔵国を結ぶ鎌倉街道沿いにあたる現在の埼玉県の各地(児玉町[こだままち/現・本庄市]、小川町[おがわまち]、嵐山町[らんざんまち]、ときがわ町、鳩山町[はとやままち]、越生町[おごせまち]、毛呂山町[もろやままち])には、14の神社に流鏑馬の由来伝承が残ります。その中で今も流鏑馬が奉納されているのは、ときがわ町の萩日吉神社(はぎひよしじんじゃ)と毛呂山町の出雲伊波比神社(いずもいわいじんじゃ)の2箇所です。

「流鏑馬の町」といわれる毛呂山町。出雲伊波比神社では、900年以上の歴史を誇る神事として毎年3月の第2日曜日に春の流鏑馬、そして11月3日には秋の流鏑馬が盛大に行われています。ここの流鏑馬は、武芸が様々な民間信仰と融合しながら永い時を経て受け継がれてきたことで、この土地独特の様式をもつようになりました。

源頼義と毛呂の流鏑馬

平安時代、武蔵国は甲斐、信濃、上野と並び御牧(みまき=朝廷が管理する牧場)として多数の貢馬(くめ)を生産していました。また、御牧だけでなく地元の豪族が管理する私牧でも盛んに馬が生産され、この馬たちを基盤に次第に力を蓄えた豪族たちは、狩猟を行い、弓馬の術を磨きました。やがて清和源氏の流れを汲む源頼義・義家を長とした武蔵武士の勃興へとつながっていきます。

1062年(康平5年)、奥州平征伐の折に毛呂山町の中央に位置する臥龍山の出雲伊波比神社に参拝した頼義・義家親子は、翌1063年(康平6年)に京へ凱旋の途中、戦勝の御礼として臥龍山に八幡宮を建立して流鏑馬を奉納しました。これが毛呂の流鏑馬の始まりと伝えられています。

以降、毛呂の出雲伊波比神社では飛来大明神(別名:毛呂明神)を祀る本殿と別宮である八幡宮の2箇所で流鏑馬が奉納されたといわれます。元禄時代の記録にも、寛永年間(1624~44年)に、ここで毛呂本郷(もろほんごう)、小田谷(こだや)、長瀬、前久保、馬場、平山、堀込という毛呂郷7カ村が中心となって流鏑馬が行われていたことが記されているそうです。それは明治10年代まで続き、やがて八幡宮の流鏑馬は春に、飛来大明神の流鏑馬は秋に行われるようになりました。

「乗り子」になるために乗馬クラブに通う子供たち

毛呂の流鏑馬は、町を大きく3つの祭礼区、「毛呂本郷」、「小田谷、長瀬地区」「前久保、平山、沢田、大師地区」に分け、各区が一頭ずつ馬を出します。毎年、輪番制でリーダーとなる「一の馬」、ほかを「二の馬」、「三の馬」とし、3頭の馬と3人の乗り子によって行われます。この流鏑馬の大きな特徴として挙げられるのは、乗り手が子供だということです。

春の流鏑馬では馬は一頭だけで、当番区から7歳になる前の幼児が選ばれます。これは流鏑馬が農作物の豊凶を神意にはかるという意味をもつことから、「七つうちは神の子」といわれる7歳前の幼児による流鏑馬がより神意に近いと考えられたためです。代々毛呂に住む家の長男だけが乗り子として選ばれる資格があるそうです。

一方秋の流鏑馬では、それぞれの祭礼区から忌穢のない家の長男である小学生から中学生の少年3人が乗り子として選ばれます。毎年子供たちは一年以上も前から乗り子になることを目標に、狭山市の乗馬クラブで練習を重ねているという話を地元の方に聞きました。毛呂の子供たちにとって馬は身近な存在なのかもしれません。

秋の流鏑馬は大掛かり

11月3日に行われる秋の流鏑馬は大掛かりなもので、9月から準備が始まります。行事の拠点となる「的宿(まとうやど)」(別名:本陣)や馬小屋の設置、祭具作りの後、祭りの10日ほど前までに馬を迎えます。日頃の暮らしから馬が姿を消した現在、馬は埼玉県日高市の牧場から借り入れるそうです。そして乗り子の稽古、馬場の支度などを経て、本番間近の11月になると、流鏑馬に関するいろいろな行事が始まります。

11月1日は乗り子が的宿に乗り込む「ノッコミ」、2日は「重殿参り」として重殿淵(じゅうどのぶち)における馬の口すすぎ、乗り子や矢取り(乗り子の世話をする年配者)への禊(みそぎ)、焼米饗応(やきごめきょうおう)とよばれる接待を受けます。その後、神社下のミタラセ池で馬の口すすぎ、神社の神職家による饗応、町廻り、そして深夜には乗り子による餅つきが行われます。

そしていよいよ本番の3日、午前中の朝的(あさまとう)を経て、午後の夕的(ゆうまとう)で祭りのクライマックスを迎えるのです。

これに対し、春の流鏑馬は本番の日に馬を迎え、秋の流鏑馬に準拠する数々の行事を一日で終えます。

子供の成長と豊穣への祈りを流鏑馬に託して

町の商店街は流鏑馬祭りを祝う個性的な飾りつけがなされ、とてもにぎやかでした。「流鏑馬」というオリジナルの地酒を販売している酒屋さんもありました。ご主人の話によると、土地に住む人々の間で受け継がれてきた流鏑馬の細かな儀式は、必ずしも当時のままではないそうです。しかし流鏑馬についてあれやこれやと話をするのもまた、毛呂の人々の楽しみのひとつになっているとのことでした。

武士が行う流鏑馬は、度重なる戦のための戦勝祈願が必要なくなった江戸時代には衰退していったようですが、神社に奉納された流鏑馬は農作物の吉凶を占う土着の信仰と結びついて受け継がれていったと考えられています。特に養蚕を行う地域に伝承されているケースが多いそうです。また、流鏑馬で子供の病気や夜泣きが治るともいわれ、子供の成長祈願に繋がります。まさしく毛呂の流鏑馬は、人々が暮らしの中で大切にしてきた子供の成長や豊穣を祈願する民間信仰に支えられてきたといえるでしょう。

平安時代に始まったと伝えられ、少なくとも江戸時代初期にまで記録を遡ることができる毛呂の流鏑馬は、2005年(平成17年)に埼玉県の無形民俗文化財に指定されました。

武蔵国とよばれた時代のように馬が駆ける姿は見られずとも、この土地の馬と人々が作り上げた文化は今も確実に受け継がれているのです。

毛呂山町公式ホームページ
http://www.town.moroyama.saitama.jp

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