#06

文・写真:高草操

2012.12.14

はるか南洋に連なる12の島々

鹿児島のはるか南の島に黒馬の群れが暮らしていることを知ったのは、20年ほど前だったでしょうか。この黒馬とは、日本在来馬の一種・トカラ馬です。彼らは、昭和27年(1952年)に鹿児島大学農学部の故・林田重幸(はやしだ・しげゆき)博士によって日本固有の純粋種として紹介されるまで、まったく世間に知られていない存在でした。それは、彼らの故郷であるトカラ列島の孤高の歴史や立地条件と無関係ではありません。

屋久島と奄美大島の間に、地図では見落としてしまいそうな12の島々があります。それがトカラ列島です。このうち人が住む島は、口之島(くちのしま)、中之島(なかのしま)、平島(たいらじま)、諏訪之瀬島(すわのせじま)、悪石島(あくせきじま)、小宝島(こだからじま)、宝島(たからじま)の7島で、あとの5島、臥蛇島(がじゃじま)、小臥蛇島(こがじゃじま)、横当島(よこあてじま)、小島(こじま)、上ノ根島(かみのねじま)は無人島です。以前は臥蛇島にも人が住んでいました。1960年代、トカラの島々は港の整備が遅れていて船が着岸できなかったため小型の船による「ハシケ」(船と陸を結んで人や荷物を渡すこと)作業が行われていました。けれども「ハシケ」作業をする人数を島で確保できなければ船が寄航することができません。1970年(昭和45年)、島民6世帯19名だった臥蛇島はついに「ハシケ」作業が不可能となり、全員が強制離島。臥蛇島は無人島となったのです。

歴史に翻弄されて、自然の脅威に晒されながら……

トカラの島々は平家の落人たちが流れ着いた島といわれています。室町時代には種子島に属し、また琉球王府の支配を受けたことも島に残る史蹟が物語ります。江戸時代は島津藩の直接支配下にあり、明治時代以降は奄美大島を含めた大東郡に属しました。第2次大戦まで、トカラ列島の北部にある竹島、硫黄島、黒島の3島(現・三島村)を含めて「十島村(としまむら)」と呼ばれていましたが、終戦後の昭和21年(1946年)、北緯30度線を境にトカラ列島が米軍による支配を受けたため、3島と分断されました。昭和27年(1952年)に本土復帰した後、トカラ列島は南北160キロにも及ぶ鹿児島県十島村として、現在に至っています。

縦長に点在する島々は孤立的で、地理的にも厳しく、夏から秋にかけては台風が常襲し、冬は北西の偏西風地帯です。昭和8年(1933年)村営定期船としま丸が就航し、ようやく近代的な交通手段や通信手段、あるいは生活に必要な基幹的施設などの整備が整い始めました。けれども近年は過疎化が進み、トカラ歴史民族資料館によると、平成24年の7島全ての住民数は630人だそうです。鹿児島港から各島々を寄航して往復する村営船「フェリーとしま」の週2便の航行がトカラへ渡る唯一の交通手段であり、島に住む人々のライフラインとなっています。

喜界馬からトカラ馬へ。宝島で守られた種の純粋性。

トカラ列島に馬が登場したのは明治30年(1879年)です。当時、列島最南端の宝島ではサトウキビ栽培が盛んに行なわれていました。そこで当時馬産地として名を馳せていた奄美群島の北東にある喜界島(きかじま)から労力として十数頭の喜界馬(※)が導入されたのです。砂糖製造の機械を動かすために重宝された馬は、宝島の各家で飼われるようになりました。島外に移出されることも外部との交配もなく、宝島に渡った馬たちは、在来の日本馬としての純粋性を保ったまま数を増やし、昭和18年(1943年)には100頭をこえ、現在のトカラ馬へと繋がっています。一方の喜界島では、軍馬生産に力を入れたために馬の雑種化・大型化が進み、在来の喜界馬は絶滅したそうです。

宝島では、太平洋戦争を機にサトウキビ栽培が縮小されていきます。終戦後は島外からの砂糖の流入によって、自家用のものを生産するだけとなってしまいます。それに伴い、馬の数も激減していきました。トカラ列島の本土復帰が成った昭和27年(1952年)、林田博士が調査で宝島を訪れたときには、43頭にまで数を減らしていたそうです。

※当時、トカラ列島の島々には馬がいなかったのに対し、奄美群島の近くに位置する喜界島では馬産が盛んに行われました。けれども、軍馬の生産に力を注ぐようになると、より大型な馬が求められるようになり洋種との交配が進みます。そのため、雑種化が進み、在来種としての特性を失い、時代の変遷と共に喜界馬は絶滅してしまいました。

島から本土へ。トカラ馬の保護に尽力する鹿児島の人々。

昭和28年(1953年)鹿児島県はトカラ馬を県の天然記念物に指定し、保護の取り組みを始めました。しかし宝島のトカラ馬は減少の一途をたどります。そんな折、鹿児島の実業家・岩崎与八郎(いわさき・よはちろう)氏からトカラ馬を保護と観光目的のために引き取りたいという申し出がありました。宝島におけるトカラ馬の保護は困難と判断され、14頭の馬が宝島から県本土の開聞山麓(かいもんさんろく)自然公園へ 移されたのでした。昭和43年(1968年)には鹿児島大学農学部附属の入来(いりき)牧場で、鹿児島市内の公園で飼われていたトカラ馬の放牧が開始されます。さらに、昭和48年(1973年)、鹿児島大学、鹿児島県、畜産会などによってトカラ馬保存会が結成されます。こうして故郷を離れて本土へ渡ったトカラ馬は徐々に数を増やし、絶滅を逃れたのでした。

保存を目的とする「周年放牧」が招く、トカラ馬の野生化

数年後、トカラ馬を再び故郷のトカラ列島へ戻す取り組みが始まりました。けれど宝島ではなく、白羽の矢がたったのは列島最大の島であり十島村役場の支所がおかれている中之島でした。昭和52年(1977年)、宝島に残っていた最後のトカラ馬の雄1頭、本土の平川動物公園の雌1頭、さらに開聞山麓自然公園から雄2頭、雌1頭が中之島に移され、新しい群れが形成されることになったのです。

現在トカラ馬は県本土の鹿児島大学入来牧場、開聞山麓自然公園、そしてトカラ列島中之島の3箇所で放牧されています。

私は鹿児島大学入来牧場と開聞山麓自然公園でトカラ馬を撮影することができました。ほとんどの馬が黒鹿毛、青鹿毛の馬体をしており、見事な群れだと思いました。けれども、このトカラ馬たちは、長年にわたり厩舎で飼養するのではなく、あまり人が手をかけず、昼も夜も、年間を通して放牧する「周年放牧」という形で保存活動が行われてきたため、半野生化し、人に近寄らなくなっていることを知りました。かつて宝島で人とともに生きていた馬たちが、「決してさわることのできない馬」となっていたのです。人を寄せ付けない黒馬たちの姿が、時の彼方に置き去りにされていたようなトカラ列島の歴史と重なりました。私はトカラ列島へ行かなければ、馬たちの本当の姿を知ることはできないと思いました。

開聞山麓自然公園
鹿児島県指宿市開聞川尻6743-1 TEL.0993-32-2051
開園時間:8:00~17:00/無休/入園料:350円

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