#01

取材:元ちとせ/写真:野村佐紀子

2010.10.13

唯一の「アイノコ」の継承者

奄美大島の名瀬の港近くに、坪山豊さんの船工場はありました。工場からは海が見え、8月1日に行われる「奄美まつり」の船漕ぎ競争大会のため、坪山さんが作った「アイノコ船」が並べられています。

坪山豊さんは一般的には奄美の島唄の名人として知られていますが、しかし伝統船舶研究の世界では奄美の伝統船建造技術保持者として極めて有名な存在で、「アイノコ」と呼ばれる奄美の伝統船を作ることができるのは、今、坪山さんしかいません。

7月の半ば、坪山さんの船工場を訪れました。唄者の大先輩である坪山さんの仕事の現場を訪ねたのは、今回が初めて。唄者としても船大工としても奄美の伝統を次の世代に伝えようと活動する坪山さんの姿を知りたいという想いからこの取材ははじまりました。

「今、奄美の伝統の舟を作っているのは、坪山さんしかしないんですよね」

坪山さんは頷いて、奄美大島の船の歴史を話してくれました。
「この島の船というのは、瀬戸内の船漕ぎで使う"板付き船"が本来の奄美の船でした。前後ろわからない船」

瀬戸内は奄美大島の南部の地区のことです。私も子供の頃はよく見ていました。小さい頃の記憶では、隣のおじさんがあれに乗って鰆を釣りに行っていました。私も乗って連れて行ってもらったことがあります。でも今は少なくなり、瀬戸内の舟漕ぎのシーズン以外はなかなか見かけなくなりました。

波切り性能が高い反面、安定感がない沖縄の漁船「サバニ」と、安定感はあるがスピードが出なかった奄美の「板付き」、その良いところを融合させたのが、この「アイノコ」です。

大正時代、アイノコはすぐに奄美の漁師の間で評判になり、広まっていきます。そしてその考案者・海老原万吉さんこそが坪山さんの船大工としての師匠でした。坪山さんが海老原さんに師事したのは、1949年、19歳のときで、以来、坪山さんは60年近くこのアイノコを作り続けているのです。
「だけどアイノコも今はもう競技用にしか使いません。船の形もどんどん発達して変わっていくし、新しいものをどんどん作るものだから、いつしか昔の船はなくなっていく。だから1人ででも残して守っていかないとと思って私はこの仕事をしているんです」

島唄も船も同じ伝えるべき文化

「元くんは、小学何年頃からやってるかな?」
「三味線は5年生からですね。唄は6年から。楽譜がなかったので、唄を覚えなくてはいけなくて」
「奄美の唄は耳で覚えて自分の感情で歌わなくてはいけない。船も同じで、設計図はなくて、22のときに図面を1回描いただけです。そこで基本的な船を作って、1度覚えてしまったので次からはもう要らない」

この基本の形を作るのが坪山さんの仕事で、そこに乗る人たちのリクエストで改良を加え、その注文を聞きながら完成させるそう。昔から唄い継がれてきた島唄を覚え、そこに自分の想いを重ね、唄い回しで自分のものにしていくように、坪山さんにとって、船も唄も、自分の身体を通して昔から今に伝えていくもの。そこへの想いは共通しています。
「島唄も奄美の立派な伝統文化だし、残して、消さないように、唄も生きているうちは守っていかんとね」

海から教わるもの

海に囲まれた島では、海との付き合い方が生活に繋がっています。

坪山さんに「海から教わるものは何ですか?」と訊ねてみました。
「海はいろいろなことを教えてくれますよ。まず、海の様子を見ていると、天気はある程度読めますね。今のテレビくらいは当てます」
「いや、テレビより当てるでしょ?」
「そうね。船に関わっていると台風前とか大雨の前は身体でわかります。雨の前というのは、海は静かなんです。騙されやすいんです。穏やかだと思って海に出ると、だんだん雨が降り始めて、しけ始めてやられる」
「私も雨の前はわかります。そういうのは習いようのない勉強ですよね」

取材時はまだ奄美地方は梅雨明け宣言が出ていませんでしたが、「もうすぐ梅雨が明けますよ」、坪山さんは空を見て、そう言いました。
「梅雨時期のことを島では"黒吹き"と言います。黒い雲がかかって雨は降らんで風が吹く。それが上がったら、シラハイになる。シラハイというのが今です。白い雲で南の風のこと。そしてもうそろそろ"うーぎゃんとぅり"になる。どこまでも泳げるべた凪のことを島口(島の方言)でそう言います。そのときは、魚はまったく動かないから釣れない時期。この凪の期間を利用して、昔、瀬戸内の人たちは、イカダで徳之島から牛を買っていました。イカダに牛の草を乗せて牛を泳がせてひっぱらせるんです」
「徳之島から牛を泳がせるんですか?」

その言葉に驚くと、「動物で一番泳ぎがうまいのは牛ですよ。次は猪。同じ季節にはその凪を利用して、喜界島から住用の港までイカダで馬を買っていました。馬に泳がせて。そういう面白い生活が昔はありましたね」と、坪山さん。

泳いではとても行くことのできない離島間の交通を、昔の人が船を使い、いかに季節を生活に取り入れていたかがわかる話でした。

島唄の中に残る船旅の風景

船とともに暮らしてきた島の人たち。それら庶民の間で生まれ、千年近くも昔から語り継がれてきた口伝承の島唄には、当時の島の人々の生活や習慣、島の風景や季節、そこで生きた人々の喜びや哀しみが描かれ、その中には、海に囲まれ、船を生活の手段としてきた島の人々の暮らしも多く残っています。
「"ゆるはらすふにや ねのふぁぶしみえて(夜走らす船や子の方の星目当て)"という唄があるけれど、これは沖縄では"ねのふぁ"、奄美では"ねのほ"を目指すということを言っているんです。今だったら、自動操舵手機があるから、放っておいても船が走るけれど、昔はそうではない。自分の目と頭で行く方向を読んでいた。昔、奄美からは鹿児島県の入り口、指宿の山側をヤマトというふうに決め込んで、指宿の貿易港を目指したんです。昔の貿易舟はアイノコよりも少し大きいくらいの舟で、帆を立てて走るので、夏場に出発しないと北風が吹いたら逆戻りする。だから登りは夏、南(ハエ)の風、下るのは冬、北(ニシ)風に乗って行くんです。それが昔の貿易だった。その登るときの目当てが、ねのほうぶし(子の方の星)、つまり子の方とは子の方向なんです。子、丑、寅の"子"。真北のことです。真北の上には北極星があります。北極星は動かない」
「ああ、ホクレア号と一緒ですね」

坪山さんは頷き、「赤木名港から出発して、北極星を目がけて帆をかけて子の方に夜出港すると、潮の流れがなければ一晩で開聞岳の麓に着いたそうです」と話します。
「船のことを唄った唄は確かに多いですね。『豊年節』の"山川観音丸"もそうですか?」
「そうです。元くんの得意の唄だね。『よいすら節』の"船(ふねぃ)の高艫(たかどぅも)"もそう」
「『黒だんど節』もそうですね。"走(は)れよ舟(ふねぃ) "」

次々に船を唄う島唄の一節が出てきました。
「そういうふうに昔の人の暮らしが唄の中に残っているのが奄美の文化です。唄を通してこんな時代もあったのか、自分の祖先というのは、こんな時代にこんな苦しい時代もあったのかと知ることができる。昔は島唄をするものは遊び人だとか言われていましたけど、今の島唄は本当に教養の学問でもある。学ぶことばかりです」

あるはずの人の力、知恵を伝えるために

坪山さんは言います。
「こう言う人もいるんです。なぜ今頃そんな船を作るのかと。でも、そんなときは、あんたたち、作れんでしょと言います。だから作れる人が作って残さないと必ず消えます。私は船を残すことで、ここにあったはずの人間の力、知恵を伝え残していきたいんです」
「坪山さんが船大工だというのは知っていたんですけど、最近になって、あらためてなぜそれを残すのかということをよく考えていたんです。私も島唄をなぜやっているのかと言われることがある。だけど、なににせよ、人の力を、という言葉を今聞いて、あ、なるほどなと思いました。やっぱり根底にあるものは、人間としての、ものすごくシンプルで大切なものを伝えたいという想いなんだと思います。

やっぱり島にいるといいですね。習うことがまだまだあります。でもこうしてたまに島に帰ってくると、やっぱり昔の活気がなくなってきていると感じますね。自分の小さい頃の豊年祭はもっと盛大でしたよね」

坪山さんが頷きました。
「もっと島は騒いでいたのが当たり前だった。だからこそ、昔から伝わるものを残していかないといけない」

島にあった風景を知っている人が伝えるしかないと坪山さんは言うのです。
「次に来たときは、作業着でおいで」
「はい、手伝いますよ!」

そして,坪山さんは、海辺に並べてある「アイノコ」を見せてくれました。そこに手を触れると、太陽にさらされた丈夫なその船から、長年奄美の海とともに生きてきた船人の記憶がひしひしと伝わってくるような気がしました。

(Coyote No.45「元ちとせ 唄に描かれた島の姿 奄美大島・伝統船篇」より)

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