#24 古の都・高麗に蘇る馬射戯 -埼玉県日高市高麗郷-

#23

文・写真:高草操

2017.01.10

埼玉県に伝え継がれる韓国の伝統文化

「『馬射戯(まさひ)』という韓国の流鏑馬が開催されるみたいよ!」と立川在住の友人から紹介されたのは2012年のことでした。さらに詳しく聞いてみると、それは埼玉県の高麗川(こまがわ)という場所で、高麗郡建都1300年に向けた記念行事として開催されているというのです。私は建都1300年の意味もわからぬまま、馬に惹かれ、まだ見ぬ馬射戯に思いを馳せ、早々と撮影に出かけました。

東京の八王子市と群馬県の高崎市を結ぶ八高線に乗り、高麗川(こまがわ)駅を降りると、穏やかな田園風景の中を歩くこと20分。そこには、風格ある立派な境内にハングル文字が刻まれた石碑が並び、朝鮮文化を感じさせる独特の雰囲気に包まれた高麗神社(こまじんじゃ)がありました。

まずは、神社に併設された会場で日韓の歴史や騎馬文化に関するセミナーを聞きます。私はそこで、高麗という土地が、渡来人の都であったという歴史を初めて知りました。次に、いよいよ近くの牧場に移動し、馬射戯大会の観戦です。馬射戯に使われる弓は流鏑馬の弓よりも小型で、的には韓国の時代劇でも見かける動物の絵が描かれています。この時観た韓国の選手のスピード感に圧倒され、私は一層、馬射戯に興味を抱くようになりました。

そして、まさしく建都1300年にあたる2016年、大々的に開催される馬射戯「高麗王杯(こまおうはい)」を再び取材することになったのです。

1300年前、新羅によって 朝鮮半島を追われた高句麗の人々の都

はるか1300年前、日本に渡来した高句麗(こうくり)の人々によって築かれたという都・高麗郡(こまぐん)。それは現在の埼玉県西部に位置する日高市、および飯能市の一部にあたります。

日高市では、民間団体である一般社団法人高麗1300と共同で、5年前から建都1300年記念行事が進められてきました。その記念行事の一つが馬射戯です。馬射戯は、2004年にユネスコの世界遺産に登録された古代高句麗の古墳壁画にも描かれている、朝鮮半島の伝統的な馬上武芸です。日本の流鏑馬のように武芸鍛錬のために行われていたそうです。

ではなぜ、日本に高句麗の人々(=高麗人・こまびと)の都が建設されたのでしょう。

高句麗は紀元前37年ころから668年ごろまで古代中国東北部から朝鮮半島北部に君臨した国の名前です。これは後の時代、新羅滅亡後に起こった高麗(こうらい)とは異なります。当時、半島南部には百済(くだら)、新羅(しらぎ/しんら)といった国が割拠していました。しかし中国・唐と新羅の連合軍によって663年に百済が、続いて高句麗が滅び、朝鮮半島は新羅によって統一されます。この時、日本に亡命してきた高句麗の人々は、駿河や甲斐、下総、上総、常陸、下野(しもつけ)、相模などの東国に分散しました。同じ頃、故国滅亡によって国へ帰ることができなくなったのが、援軍を求めるために高句麗王の使者として日本を訪れていた玄武若光(げんぶじゃっこう)でした。日本に残ることを余儀なくされた若光は、後に日本の朝廷から高句麗王族として高麗王若光(こまおうじゃっこう)の姓を与えられ、高麗郡の祖になったと伝えられています。

716年(霊亀2年)、東国に散らばっていた高麗人(高句麗人)を集めて武蔵国に建都された高麗郡は、1896年(明治29年)に入間郡に編入されるまで、その名を歴史に残しました。

朝鮮半島からの渡来人の知識や技術が蝦夷の開拓を促進した。

高麗王若光を祀った高麗神社は日高市新堀(にいほり)に鎮座します。出世明神とも呼ばれ、今でも多くの政治家や有名俳優が参拝に訪れるといいます。宮司は、建都当時に高麗郡の長官を務めた高麗家の60代目となる当主・高麗文康氏。1300年も続く家系というから驚きです。もちろん、この建都1300年事業においても中心となって活動されていました。

高麗郡には馬にまつわる興味深い歴史があります。

高麗郡が建都された当時の日本は、全国に国・郡・里を置き、中央政府から遣わす国司と、地方の豪族から任命される郡司による地方統治を基盤とする律令国家でした。未開地であった蝦夷(現在の東北地方)への足がかりとして武蔵国を重要視した政府は、高麗郡に続いて758年には帰化していた新羅人を集めて新羅郡(現在の新座市)を設置。渡来人の多くを東国に移住させ、彼らの知識や技術を取り入れて開拓に力を注いだといわれています。政府が蝦夷制覇をもくろんだ目的の一つは、蝦夷が産出する良馬でした。しかし蝦夷制覇後、その馬によって武力をたくわえたのは武蔵国の武士団でした。やがて彼らの活躍によって鎌倉幕府という武士政権が誕生するのですから面白いものです。

高麗郡建都1300年事業のハイライト、馬射戯

2016年、建都1300年を記念した馬射戯・高麗王杯が行われたのは、日高市高麗本郷にある曼珠沙華(彼岸花)の群生地として知られる巾着田(きんちゃくだ)でした。高麗川が大きく蛇行した場所にあり、上から見ると巾着袋のように見えることから命名されたそうですが、私には馬の蹄鉄の形に見えました。

巾着田の佐島(さしま)牧場はこの土地で4代続く老舗の牧場で、馬射戯のほか県内外の馬のイベントや流鏑馬などに馬を貸し出しているそうです。「馬の問屋業」を自称され、80頭近くのいろいろな種類の馬たちが、目を楽しませてくれました。今回の馬射戯には、彼らの中から、カムイ、アルバ、リンゴの3頭が出場しました。

馬射戯の射手は男女を問わず、色鮮やかな衣装に身を包み、馬と疾走し、的を狙います。その勇ましい姿と真剣な眼差しには誰もが思わず息を飲むほどです。この日、盛り上がりが最高潮に達した決勝では、韓国の選手が優勝を飾り、先人たちが都を築いた地に花を添えました。

日本、韓国の選手団に加え、今年はマレーシアも初参戦。日高市長や市議会議員も臨席。関係者や多くの見物客が会場に足を運び、大変な賑わいを見せました。特に会場内に設けられた地元の特産物がいただけるグルメコーナーは大人気で、地域の活性にも一役買っていました。

馬射戯が、国境を越えて人と文化を繋ぎ、歴史を紡ぐ役割を果たしてきた。

建都記念行事は、これまでは官民共同事業として行われてきましたが、今後は民間主体での運営となることから、来年以降の馬射戯の実施は未定なのだそうです。馬射戯を通して高麗という土地の歴史を知り、新しい出会いを得た私には、それが残念でなりませんが、それでも、「このイベントが終わりではなく、地域発展のスタートにしなければならない」という事務局や関係者の方々の思いを伺えたことは心強くもありました。

そして、高麗文康氏もまた挨拶の中で「高麗1300年の歴史が地域の未来をつくる土台になることを願っている」と話されていました。武蔵国の歴史に根付いた馬のことを考えれば、馬射戯の開催にも大きな意味があると思います。

あの時、馬射戯の話を聞かなければ、私は日高市にこのような深い歴史があることを知る由もなく、高麗という土地を取材する機会もなかったことでしょう。馬から得た縁は、馬と人、人と土地、そして国を越えた文化を結びつけてくれるのです。

馬は歴史を語る。その思いを新たに、これからもまっしぐらに馬を追いかけていきたいと思っています。

【参考】馬射戯は韓国で受け継がれてきましたが、高麗人(高句麗人)と現在の韓国の民族とは必ずしも同一ではないとする学説もあります。

一般社団法人高麗1300
http://komagun.jp/komagun

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