#16 寛文の時代から続く、遠野馬のセリ市 -岩手県遠野市-

#16

文・写真:高草操

2015.04.14

由緒ある「南部馬」の血統

2002年の夏、私は初めて岩手県遠野を訪れました。夏の間、馬たちが山の牧場に放牧されていることを知り、どうしてもその風景を撮影したいと思ったからです。市街地から車で40分ほど、早池峰山(はやちねさん)を望む広大な牧場には100頭近い馬が群れをなしていました。そのあまりに雄大な光景に私はすっかり魅了されてしまいました。そして遠野が古来の馬産地であること、その馬たちはかつて名馬として名を馳せた日本在来馬「南部馬」の末裔であること、現在も毎年一回秋に馬のセリが行われていることなどを地元の人から聞きました。

私は早速、同じ年の10月「遠野馬のセリ」にでかけたのです。競走馬となるサラブレッドのセリは北海道で撮影したことがありましたが、初めて見る遠野のセリは雰囲気がずいぶん違っていました。「乗用馬」として育てられた若駒たちは血統も種類も様々。そして馬を送り出す生産者だけでなく家族連れでセリを見にきた地元の人々の誰もが、当たり前のように馬と接していることに驚きました。人と馬の間にまったく緊張感を感じなかったのです。私は馬産地・遠野のスピリットにふれたような気がしました。

平安時代から始まった上閉伊地方の馬産

遠野を含めた上閉伊(かみへい)地方(現遠野市、釜石市、大槌町)は古くからの馬産地でした。平安時代初期には蝦夷地とよばれ、すでに土着の民が多くの馬を育てていました。801年(延暦20年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)によって制圧されると、国府統治下におかれ、このときから本格的な事業として上閉伊地方の馬産が始まったとされています。

その後、1190年(建久1年)より阿曽沼(あそぬま)氏が治めるようになった遠野は、上閉伊地区の中の三陸沿岸と内陸部の産業や交易の中心となり、軍馬としてだけでなく、農耕、輸送、運搬、駄送にも馬が活躍するようになります。そのため阿曽沼氏は広大な山林原野を利用した放牧を取り入れ、競馬なども実施。優れた馬術者を多く育て、秩序ある馬産事業を展開しました。

セリは「一・六市日に馬三千」の賑わい

1596年(慶長元年)に阿曽沼氏が滅ぶと、遠野は糠部(ぬかのぶ・現在の岩手県北部および青森県東部)地方を治めていた南部氏の統治下におかれます。もともと南部氏は多くの優れた馬を生産していました。その一派である八戸南部氏が馬とともに遠野に入城すると、遠野の馬産に少なからず影響を及ぼしたのです。

藩政時代を通じ、産業や生活物資の集散市場として旅客の往来が頻繁だった遠野では、馬がすべての交通手段を担っていたため、馬産はますます盛んになっていきました。人々は農業のかたわら駄貸付(だちんづけ)とよばれる駄送業で生計をたて、使役に耐え得る強靭な馬の生産や育成に努力を重ねていたのです。

それに伴い、馬のセリも盛大になりました。南部藩では寛文年間(1661~1673年)から「糶駒(せりこま)」が継続的に実施されていたという記録が残っていますが、遠野においては1672年(寛文12年)に南部藩から役人が派遣されて「糶駒」が開催されました。以後、月の一と六がつく日に「糶駒」が行われ、「一・六市日に馬三千」といわれるほど賑わい、役人の旅宿や会場整備など、大掛かりな準備の様子も今に伝えられています。

馬産にも波及した終戦、農業の機械化の波

時代は下り、明治維新後には馬政局ができ、国策として馬の増殖・改良が行われます。上閉伊管内でも1877年(明治10年)に初めて洋種馬が導入され、産馬組合も結成されました。日露戦争(1904年)以後は軽輓馬(けいばんば)の生産を目標として在来の南部馬の改良が本格化し、馬の頭数も増え、遠野には9000頭もの馬が飼養されていたといいます。セリは8日間続き、馬、関係者、購買者だけでなく露店やサーカスなども出て、大変な活気に満ちていました。

しかし1945年、第二次大戦終結にともない、軍馬生産を目標に掲げてきた日本の馬産業は大きく変わります。馬は生産地の自然や経済的条件に応じて「農用馬」「輓馬」「乗用馬」に区分されました。やがて押し寄せた農業の機械化の波、遠野でも馬の需要は肉用馬が主体となっていきました。馬の飼養数は1960年(昭和35年)を境に減少の一途をたどり、1977年(昭和52年)には95頭にまで減っていたのです。

「乗用馬」に活路を見出す

働く馬たちが減少する一方で、若い人たちを中心に乗馬人気が広がり、内国産乗用馬の需要が高まっていました。そこで1971年(昭和46年)、上閉伊畜産農業協同組合と馬産愛好家70人による遠野市乗用馬生産組合が結成され、遠野は再び馬産振興に力を入れることになったのです。それは遠野地方における農業所得向上と、広大な牧野や草地資源の有効活用を目指す、画期的な施策でした。翌年、日本中央競馬会より2頭のサラブレッドの種牡馬「ヤマドリ」「タケブエ」の2頭が貸与され、組合員所有の在来牝馬50頭。遠野における本格的な乗用馬生産の始まりでした。

1974年(昭和49年)に、第1回遠野市乗用馬市場が開催。このセリで日本馬術連盟が購入し、熊本大学に譲渡された照山号(現役時代・夕城号)が、後の栃木国体(1980年)で見事優勝を果たしたことで、馬産地・遠野の復活を印象付けることとなりました。以後、外国の種牡馬や新たな繁殖牝馬を導入しながら遠野の乗用馬生産は今も続けられています。

セリの成果を左右する、前夜の品評会

現在「遠野市乗用馬市場」は、毎年秋、市内駒木町にある馬の育成施設「遠野馬の里」の覆馬場で開催されています。以前は屋外で行われていたため天候に左右されることもありましたが、今はその心配はなくなりました。上場馬は1歳馬を中心に、人を乗せることができるように訓練された2歳馬や3歳馬です。私が初めてセリを撮影した時は、馬の値が上がるたびに地元の観客から「ほれほれ、もう一声!」という掛け声が上がり、会場は盛り上がっていました。昔ながらの馬産地の活気みたいなものを感じたのですが、現在はセリのルールが徹底され、そのような掛け声は禁止になりました。当時の情景が少し懐かしく思われます。

セリの前はリハーサルや準備などで生産者や「馬の里」のスタッフは大忙しです。特にセリ前日は各馬事団体の審査員による1歳馬管理共励会(品評会)が行われるので、誰もが愛馬の手入れに余念がありません。共励会では20頭ほどの1歳馬に順位をつけ、1席1頭、2席2頭、3席3頭が選ばれます。その後、購買者による2歳、3歳馬の試乗会、そして夜は共励会に入賞した馬生産者の表彰式が行われます。各関係団体から送られる数多くの表彰状や記念品が入賞者一人ひとりに丁寧に授与されるのでとても時間がかかりますが、誰もがいたって神妙な面持ち。彼らにとって馬の生産で表彰を受けるのは大変名誉なことなのです。続いて来賓、地元関係者、組合員を交えた懇親会となり、セリの成功を願う前夜祭はおおいに盛り上がります。

セリで味わう温かな地元のおもてなし

迎えたセリ当日の午前中は、人が乗らずに、馬たちが障害物を飛び越えるフリージャンプが行われます。1歳馬だけでなく2歳、3歳馬も障害を飛越する姿を購買者にアピールします。そして、午後はいよいよセリ本番。「馬の里」のスタッフが騎乗する2歳馬、3歳馬のセリに続き、引き馬による1歳馬のセリが行われます。私も馬たちがよいオーナーにめぐり合えることを祈りながら彼らの一頭一頭にレンズを向けます。

この晴れ舞台の少し前、お昼休みには遠野で昔から続けられているイベントがあります。それは待機厩舎の愛馬がいる馬房の前で、生産者の家族が自前のお弁当を広げてセリに訪れたお客さまたちにふるまうのです。どの家でも「セリのお弁当は特に力を入れるのよ」とおっしゃるだけあり、奥さんたちが徹夜で作る数々の郷土料理や炊き込みご飯、お祝いのお饅頭が並びます。トン汁の炊き出しも嬉しい一品です。10月とはいえ遠野はすでに冬目前。寒さの中、家族総出のおもてなしに購買者の心もなごみます。

生産者だけでなく、馬の育成に励んできたスタッフ、セリ会場の準備や表彰式、懇親会の運営、来賓や購買者のサポートをする遠野市職員、皆が一丸となってセリを盛り上げている様子は、藩政時代の糶駒と同じかもしれません。遠野が乗用馬生産を再スタートさせて半世紀近く、これまでセリで旅立っていった馬たちは、国体や全国規模の馬術大会だけでなく海外の競技会でも優勝するようになりました。

蝦夷の在来馬から南部馬、そして乗用馬へと時代のニーズに合わせて馬を育て、セリへと送り出す馬産地・遠野。そのスピリットは今も活きているのです。

遠野市乗用馬市場については「遠野馬の里」HPから
http://www.umanosato.com/

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